ほぼ意識の失せた死の床で「言葉にならんもんは、わかんないよなぁ」と呟いた祖父

論理とか因果関係とかによって、この世の中のものはどのくらい語り得るんだろう。

 

まあ、語り得なくても構わんものの方が多いのだが。

 

例えば、じゃあ、自分にとって切実なことは言葉なんかを通して、何らかの論理で語り得るんだろうか。

 

例えば、

 

どうやったら気持ちいいんだろう

 

とか、そういう問題は言葉によって語り得るのか。何らかのロジックで解決するのだろうか。

果たしてそういうことは言葉によって語られるべきことなんだろうか。それとも、言葉だけではなく音楽やら、絵画やら、映像やらも含めてカバーされる(「語られる」)ことなんだろうか。

 

どうやったら気持ちいんだろう

 

という問いかけはちょっと曖昧なんだが、気持ちよくなるように生きている(快楽原則?)みたいな話だけでなく、不要に気持ちいことだってハプニングとして起きるわけだし、そういうのも含めてどうなんだろう。

 

ここで、「気持ちいい」という言葉の定義がうんちゃらかんちゃら、とかそういう話をしようとしているのではない。「気持ちいい」という言葉が相応しくはないのかもしれないが、「なんだかこれは良い、私はこういうことやっているの好きかもしれん」なんて思えるのって、どういうメカニズムだとか解明できるのか。それは言葉とか意味とかによって語ることができるのだろうか。

 

 

祖父が痴呆で長期間入院していた。

もう15年以上前だ。

その際に、彼は病室の什器備品をしょっちゅう分解したり破壊したりしていた。暖房やら、ベッドやら、キャビネットなんかを器用に分解(壊して)は看護婦さんを困らせていた。壊しちゃったわけだから、まあ家族である私たちも気まずい思いをしていた。

まだギリギリ言葉を話せた彼は、「治している」と主張していた。

 

それは幾度にもわたり、高校生だった私なんかは、もう、こりゃしかたねえなと思っていた。

 

祖父と同室だった比較的頭がまともそうだったボケ老人たちは祖父について

 

「この野郎、とんでもねえ野郎で、悪い奴なんだ」

 

と、仰っていた。

 

祖父は痴呆になる前は大工をやっていた。いや、やっていたらしい。私の覚えている祖父は、もう大工を引退して自分のアトリエ(作業場?ゴミ溜め?)にこもり、機械いじりなんかをやっていた。

 

大工だったせいか手先が器用で、ごみ捨て場や知り合いから壊れた自動車やら壊れたテレビやらをもらってきては治していた。もっとも、毎日のように何かをもらってくるので、もらってきた物のおそらく1割ぐらいを治していた。治して、満足するらしく、ほとんど使っているところは見たことないし、人にあげたりしているところを見たこともない。

 

一度だけ、祖父の治した日産のスポーツカーに乗せてもらったことがある。白くてツードアだったが車種がなんだったかは、当時幼かったのでよく覚えていない。エンジンとかトランスミッションとかそういうメカのところにしか興味がなかったのか、シートなんかはついていなかったり、内装は壊れたままだったりしていた。ラジオは聞こえていたが、果たしてはじめっから壊れていなかったのか、治したのかはわからなかった。たしかナンバーはついていたと思うが。

 

そういう、治っているとも、ぶっ壊れているとも言い難いガラクタが、家の周りを囲っていた。自動車四、五台、テレビたくさん、換気扇たくさん、便器やら蓄音機やらなんやらがたくさんあった。

 

だから、入院中の祖父にとっては、暖房器具をいじったりするのもその延長線上だったのだろう。そういえば、入院する前ほんの短期間私の実家で同居していた時も、かなり痴呆が進んでいたが、毎日のように何かを拾ってきて、私がそれを捨てに行った。もう、独りで出歩くと帰ってこれないぐらいボケていたし、まともに言葉も話せないくらいボケていた。

 

酒を飲むときと、酒を買いに行く時だけはしっかりしていて、一度私は、彼が外出した時に監視役として同行したが、家を出て迷うことなく酒屋に向かい、店に入り、

 

「焼酎。30度」

 

と店員に告げ、金を私に払わせ、酒屋を出てきた。普段は飯も一人じゃまともに食えないし、「散歩」とか「アー」とか「ウー」としか口から出てこないのに。さすがにこの時は驚いた。

帰り道は私がガイドしなければ帰れなかったが。

 

痴呆になるとゴミを拾ってくるようになるというが、きっとそういう問題じゃなく、彼はかなり若い段階から修理できそうなもの(ゴミ)を拾ってくる習慣があったようだ。

 

入院して数年が経ち、祖父の痴呆はかなり進み、体力も落ちた。

言葉もほぼ全く話せなくなり(話すのがめんどくさかっただけかもしれんが)、自力で体を動かすのも怪しくなり、身の回りのものに触れることもできなそうな状態になった。

 

それでも、彼はベッドやらを壊そうとしているようなそぶりを見せたりしていた。

 

程なくして、ついに寝たきりになり、意識もはっきりしなくなった。

その死の床で祖父は、とても出来が悪く、きたない

 

「枝にカタカナで「ジュテーム」と刻まれたフランス製の傘」

 

を完成させ、程なく他界した。

 

生前、彼が私に舶来品の良さを語ってくれたことがある。祖父が実際に舶来品を使っているところはほとんど見たことがなかったが、少ない言葉で静かに語ってくれた。

 

「フランス製のものはだいたいが日本製なんだ。日本製だからよく出来ているんだ。」

 

と言っていた。

彼は国産品の良さをよくわかっていたのだろう。いろいろなものを分解してきたから。だからそんなことを言ったのかもしれないなんて思った。

 

「舶来品が国産品よりもいいわけがない」という思想を「舶来品がよく出来ているのは国産品だからだ」と言い換えていたのかもしれないと思ったりもしたのだが、その実、そういうわけでもなかったのかもしれない。死の直前に、祖父が残したものからは舶来品に対する絶対の信頼を伺える。

 

そして、意識が失せかけた後も、ものづくり、というか再生、と言えばいいのか、もしくは破壊というべきなのか、をほぼオートマチカリーに続けさせた何かを感じ、何をして彼を動かしているのかと不思議に思った。

 

今にして思えば、最終的には祖父自身も、周りの人間にもわからない切実な何かが祖父の中にはあったのだな。