病気が治らないと笑うこともできないかもしれない。だったら治ったら笑ってほしい。

同じ病棟に、いつも俯いて、ボーっと遠い目をしている女の子がいた。歳は27か8ぐらい。椅子の肘当てを擦り、何度も立ち上がろうか立ち上がらないか迷うのが彼女の癖だった。チューリップの蕾みたいな可愛らしい子だった。

彼女は色々病気で失ってきていて、傷つき、瞳から輝きが消えつつあった。地元の広島の病院に転院することだけを夢見ていた。いつも、ひとり遠い目で周りを見ていた。カナコちゃん

もし彼女に、他の人と話ができる余裕が充分に出てきたら、彼女に色々なアホな話を聞いてもらい、少しでも笑って欲しかった。私には、言葉以外に使える道具はない。似顔絵も描けないし、歌もあまり得意じゃない。手品なんかもできない。勿論ジャグリングやら声帯模写もできない。江戸屋猫八にはなれない。

私が彼女に何度か声をかけ、クッキーやら飴をあげたら、いつしか私がロビーに座ってボーっとしている時は彼女が隣に腰掛けることが多くなった。私は何を話しても長くなる癖があり、彼女を疲れさせるのが嫌だったから、いつもただ一緒にボーっとしていて、二つ三つ簡単に答えられる質問をした。

東京の街を歩いた?
クレープ好きなの?

私が、このブログに何を書いても彼女には読んでもらえない。彼女は私の名前すら覚えていないだろう。それに、彼女はいつも彼女の作った華奢な甲冑の中に潜んでいた。いつも元気を取り戻した彼女を少しでも笑わせたくて、何か面白い話はなかったか思い出そうとしたのに。そして今もまだ、思い出すのに。

もう一人、同じ病棟に高橋さんというおじさんがいて仲良くしていた。警察のお世話になったりしながらここに来た者同士話が盛り上がった。病棟にいる中で一番マトモな、一番ヤバいおっさんだった。私は高橋さんの話なら何時間でも聞いて入られた。

高橋さんもまたカナコちゃんのことを気にかけていて、彼女が現金を持たないせいで実家に電話をかけれないことを気の毒に思い、こっそり使いさしのテレホンカードをあげていた。飴やらクッキーを自分はあまり好きじゃないのに、僕等若い衆に与えてくれた。

一度、私と高橋さんがロビーで話をしていた時、私の隣にカナコちゃんが静かに腰掛けた。
高橋さんと話が盛り上がっていたので、カナコちゃんにも話を振った。
ここに来る前に彼女は北国に居たと聞いていたから、良くなったらまた北国に戻るのか?それとも広島に帰るの?
と、尋ねた。
彼女が黙って、ボーっと遠い目をしてたから、

このまま東京にいたら?

と、私が呟いたら、高橋さんがすかさず私の口真似で

俺の嫁になれ

っと言った。
私は驚いて、

高橋さん、それ、僕が40秒後に言おうとしてたセリフです。40秒待ってください。40秒早いです

と言ったらカナコちゃんが、すこし迷惑そうに笑った。本当に笑ったのかどうなのか気づかない程だったけど、確かに笑った。
私と高橋さんは無意識に目を合わせてニコリとした。

カナコちゃんが失ってしまったものの多くは戻らないだろうが、また彼女が笑う姿をたくさんの人に見せて欲しい。傷つかないでこの病棟に入って来たもののおごりと言われても構わん。