新しい私へ。古い私から

ついにきてしまったというべきなのか、ずっと前からこうだったのか。わからない。

 

けれども、おそらくこれは必然で、季節によるものなのかもしれないし、身体のサイクルによるものなのかもしれない。けれど、またけれどだけれども、私は新しい私になるのだ。古い私とはお別れの時が来た。新しい私が何ものなのかはわからないけれど、古い私を忘れ去らなければ行けないことはおそらく確かなことだろう。

 

そんなことを、今日会社帰りの地下鉄三ノ輪駅でおもった。

 

春という季節が、どうも好きなようだ。春が来ると、振り袖に袴のかわいらしい女子大生が街を歩くし、桜も咲く。そんな街をライカでパチリパチリとするのが好きなのだ。そして、春は出会いの季節。あたらしい人たちと知り合って、笑ったり泣いたりする。

 

そういう春の訪れとともに、私は毎年躁状態になる。写真の現像を始め、恋に落ち、ギターが欲しくなり、飲めない酒を飲み。まあ、写真の現像以外はあまり褒められたもんじゃない。

 

躁の後に来るのは、鬱だ。写真の現像をやめ、撮影もやめ、家にこもり、失恋し、ギターへの興味が無くなり、飲めない酒を飲む。酒はやっぱり飲む。

 

犬、猫と私は変らない。3年サイクルくらいでこういう春が訪れる。そして、私はその度に新しい私になるのだ。昨日までの、いや、ついさっきまでの自分の感情を羞じ、否定し、夢遊病のように眠ったまま毎日が過ぎ行く。

 

しかし、何度新しい自分になっても、改善することはない。ただ新しい自分になるだけだ。思いやりや想像力が備わるわけではない。ただ、疑い、悲観し、傷つき。

 

それが、おそらく今年の私にも訪れている。

ここを眠ったまま通り過ぎて、早く夏になってしまいたいが、過ぎ去った時間は短いが、目の前の時間は長い。出口の見えない春のトンネルに入る度に、昨日までの自分を忘れ、否定し、疑い、新しい自分になる。